「体育大嫌い」エッセーに共感◆ヒャダインさん訴え、大学で教材に #令和の子 …◇刺激的な原稿、そのまま掲載 「体育科教育」は1953年創刊。大修館書店の編集担当者、川口修平さんによると、小中高校の体育教員や指導主事、体育科教育の研究者らが主な読者層だ。 (出典:) |
特に現代の子供たちが直面している環境や価値観の変化を考えると、体育に対する捉え方が多様化していることが感じられます。
コメントを読むと、体育の授業に対する苦手意識が強かった人は多いようですね。このエッセーには共感する人も多いでしょう。
1 煮卵 ★ :2025/02/16(日) 08:59:26.22 ID:LKG+DsQH9
こんな一文で始まるエッセーが体育専門誌に掲載されたことが、SNSで話題となった。
寄稿したのは、音楽クリエイターのヒャダインさん。授業の残酷さや教育者の無理解を厳しくとがめる文章が、なぜ体育教員向けの専門誌に載ったのか。出版社やヒャダインさん、そして体育教育者側に、それぞれの思いを取材した。
(時事ドットコム取材班キャップ 太田宇律)
◇「そっとしておいてください」
このエッセーは、「運動が苦手な子どもが輝く授業をつくろう!」と題された月刊専門誌「体育科教育」2019年3月号に掲載されたもの。
ヒャダインさんは「なぜあなた達体育教師は僕達にクラスメイトの前で恥をかかせようとするのでしょう?」と問い掛け、この号のテーマについても「『運動が得意な子は輝いている』と思ってるってことですよね?上から目線の差別意識丸出しじゃないですか」と切り捨てている。
今から6年前に掲載されたエッセーだが、24年12月にあるユーザーがX(旧ツイッター)で紹介すると、「名文だ」「一言一句同意する」と共感が広がった。自分も体育でつらい思いをしたと訴える声のほか、「掲載した出版社もすごい」「体育教師側のアンサーを聞きたい」という意見もあった。
(略)
エッセーがどんな経緯で掲載されたのか興味を持ち、出版した大修館書店(東京都文京区)に取材を申し込んだ。
◇刺激的な原稿、そのまま掲載
「体育科教育」は1953年創刊。大修館書店の編集担当者、川口修平さんによると、小中高校の体育教員や指導主事、体育科教育の研究者らが主な読者層だ。
「エッセーを掲載した19年当時も体育教育の関係者からかなり反響があったのですが、今回は一般の方にも広く注目されました。ここまでの反応があるとは、正直びっくりしています」と川口さん。
体育は「好きな教科」のアンケート調査で常に上位に挙がる人気科目だが、「我々が思っている以上に、嫌いな人も潜在的に多いのだと改めて感じた」と話す。
テレビ番組などで体育嫌いを公言していたヒャダインさんに寄稿を依頼したのは、「運動が苦手な子どもをテーマにするなら、まず当事者の方の声をきちんと聞くべきだと考えた」ためだった。
「ぜひ率直な思いを書いてください」と依頼したところ、届いたのは「かなり刺激的な原稿」(川口さん)だったが、編集部では「率直で尊重すべき意見だ」と一致。原稿はそのまま巻頭に掲載された。
◇ヒャダインさん「人格形成の障害だった」
ヒャダインさんは当時、どんな思いで寄稿したのか。取材を申し込むと、オンラインでのインタビューを快諾してくれた。
―寄稿の依頼が来たときはどう感じましたか。
正直に言いますと「我々にはこういう意見も受け入れる寛容さがありますよ」という体育教員っぽさを感じて、ちょっとむっとしまして(笑)。読んだ教員が反論できないように、あえて攻撃力の高い言葉を選んだんです。却下されるだろうと思いましたが、そのまま載ったので「すごいな」と思いましたね。
―少年時代、体育でどんな体験をしましたか。
週に3回、体育のたびに大勢の前で恥をかかせられるのは、人格形成において障害でした。鉄棒やマット運動もそうですし、特にサッカーのような団体競技では、足を引っ張る存在として無視されるのが本当に嫌だった。チーム分けでは誰も自分を欲しがらず、「僕は価値がない人間だからしょうがないんだ」とみじめに言い聞かせる。体育が自習にならないかと、いつも雨を心待ちにしていました。
―そうした気持ちに、教員も無理解だった。
運動が好きで、当たり前にできる人が体育教員になるわけですから、できない人の気持ちは分からないんですよ。僕が1人だけ走り高跳びを飛べないと、「できるまでみんなで見守ろう」なんて言い出す。できない人をさらし者にして、みんなが感動するコンテンツにしようとするんです。
◇大人になったら関係ないぞ
―エッセーはSNSで広く共感されました。
これから人格が作られる感情が柔らかな時期に、笑いものにされたり自己否定したりしなければならず、鬱屈とした人格を醸成されてしまったと嘆いている方が大勢いました。
「自分のせいで嫌な記憶を思い出させてしまったのでは」という罪悪感もありました。
続きは↓
https://news.yahoo.co.jp/articles/11c67fc5a770f9df4720adf5fcb0d134a883d513
[時事通信]
2025/2/15(土) 17:00
脳筋専門誌
業界専門紙は一定の需要あるぞ
マラソン選手とかバカにする大人になるよね
「こんなの誰にでもできる」とか。
外国人の同僚がヘーキで言ってて驚いたよ
それでも小中学校時代に基礎体力を引き上げてもらい本当に良かったと思う。
幼少期に形成された基礎体力って一生に渡って影響を与えるんだってね
ネットざんまいで動画の閲覧にゲーム…今のインドア時代に於いて
もしも小さい頃から思春期にかけて嫌々でも運動やらされてなかったら、今頃もっと体を悪くしていたと思う
お前は単に体育が苦手なだけ
これは体育恐怖症レベルの話
恐怖症まで言い出したら、
音楽の授業や立って読まされる国語の授業や何でもあるだろ
でも音楽や国語は休めないが、体育の授業だけはきちんと事情を話せば休んで見学できるよな?
ずーっと見学だったヤツいるぞ
人前で歌わされるの拷問だよ
おかげで今もカラオケは大嫌い
合唱祭の時だけ輝く女
「そこの男子、もっと声出していこうよ!」
数学チンプンカン女なのにこう言う時だけイキる
体育嫌いと言ったらなぜニュースになるのか?
マスゴミ始めオールドメディアや電通始めた広告代理店の飯ネタだから
テレビ新聞見ればスポーツスポーツだろ
昭和脳もスポーツ出来れば評価高いような風潮
体育 一切教えない 才能の披露だけ
音楽や美術(図工)なんかもそんな感じよな
結局身体能力が高い子やピアノ習ってる子だけが有利
常に自分が他人より優れている体験しかしていない人間は共感力の欠落したゴミのような人格になる可能性が高い
成長過程である程度の劣等感を抱くことは非常に大切なことだ
その経験によって、強烈に自分を客観視できるようになるんだよ
「あー俺ってこの方面がほんとに苦手なんだな」
(恥かいた体験)
「でも代わりに俺ってこれはムチャクチャ得意なんだな」
(絶賛された体験)
この「自分を客観視する経験」をしないまま成長すると
理想の自分像ばかりが育つから
社会に出た時、
万能感と←→現実の出来ない自分との乖離に苦しみまくって心がポキンだよ
いいこと言うなあ
全面的に同意
週に僅かなコマしかない体育が苦手な子供と比較すると格段につらい思いをしているわけだ
ことさら体育だけにフォーカスするのは公正ではないだろう
体育は見世物になるからな
体育は公開処刑されるんだよ
算数は一人一人の点数を晒されたりしないだろ
しかし運動能力が無い人間にとっても
運動する事に価値があるのは事実
代案もなく廃止してよいものは無い
勉学と共に学校で指導すべきと思う
何より、できないことを基準に学業の内容を決めることは
結局は能力の低下が進み
結果的にこの人の言う出来ない人をたくさん作ることになる
いらんねん